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「マティス 自由なフォルム」国立新美術館
国立新美術館
〒106-8558 東京都港区六本木 7-22-2


「マティス 自由なフォルム」国立新美術館
「マティス 自由なフォルム」国立新美術館
「マティス 自由なフォルム」国立新美術館

 20世紀最大の巨匠の一人アンリ・マティス(1869-1954) は、後半生を過ごした南フランス・ニースにて、様々な色が塗られた紙をハサミで切り取る技法 「切り紙絵」 による作品を精力的に制作しました。 この技法によってマティスは、彼の言葉を借りれば 「デッサンと色彩の永遠の葛藤」 を解決し、新たな芸術表現を切り拓きました。

 本展は、その切り紙絵の重要なコレクションを誇るフランスのニース市マティス美術館の全面的な協力を得て、マティスの切り紙絵に焦点を当てた日本で初めての展覧会です。 マティスが初めて描いた油彩作品から、フォーヴィスム(野獣派) の大胆で荒々しい色彩表現、ニースのアトリエ内で描いたオダリスクの主題の絵画、バレエの衣装、大型装飾、彫刻、陶芸、本の挿絵、タペストリー、そして切り紙絵までを通覧します。

 マティス芸術の集大成ともいえるヴァンスのロザリオ礼拝堂のステンドグラスや陶板壁画の習作をご紹介するとともに、礼拝堂の室内空間を臨場感溢れる映像を用いて再現します。


会期: 2024
2.14 [WED.] 5.27 [MON.]
休館日: 毎週火曜日(※ただし 4月 30日(火)は開館)
開館時間: 10:00 ~ 18:00 (※毎週金・土曜日は、20:00まで)
※入場は閉館の30分前まで
会場:
国立新美術館企画展示室2E (東京・六本木)
主催:国立新美術館、ニース市マティス美術館、読売新聞社、日本テレビ放送網



'2024 2_13 国立新美術館 「マティス 自由なフォルム」 のプレス内覧会風景と、図録、「PRESS RELEASE」 などからの抜粋文章です。
・画像をクリックすると 「マティス 自由なフォルム」 展覧会作品説明会 米田 尚輝(国立新美術館主任研究員)」 がご覧いただけます。

「マティス 自由なフォルム」国立新美術館

マティス 自由なフォルム」
展覧会作品解説会 '2024 2_13
国立新美術館 (東京・六本木)



「マティス 自由なフォルム」国立新美術館

マティス 自由なフォルム」 の図録、Press Release、プレス説明会、他関連よりの抜粋文章です ―

「マティス 自由なフォルム
【見どころ 】
150 作品以上を一挙紹介 ―本展はマティスが最後に辿り着いた究極の技法 「切り紙絵」 とヴァンスのロザリオ礼拝堂を中心に紹介するものですが、そこに至るまでの多彩な作品も展示されます。
マティスが 「私の最初の絵画」 と称した最初期の油彩画から、鮮やかな色彩で描かれたフォーヴィスム時代の油彩画や貴重な陶芸作品、ニースへ移り住んでから描いた有名なオダリスクの油彩画や彫刻、そして名高いバーンズ財団の壁画の関連作品やタペストリーの下絵となる油彩画まで、様々な時代の作品をご紹介します。
今後、作品 No.97 《花と果実》 は外に出る可能性は限りなく低いとのことで、またとないチャンスとなります。

HENRI MATISSE | Formes libres 展示構成 (カタログの抜粋文、概要説明、他でご紹介しています。)
目次 | Sommaire
Section Ⅰ | 色彩の道 | Chemins de la couleur
Section Ⅱ | アトリエ | Les ateliers
Section Ⅲ | 舞台装置から大型装飾へ | Du décor à la grande décoration
Section Ⅳ | 自由なフォルム | Formes libres
Section Ⅴ | ヴァンスのロザリオ礼拝堂 | La Chapelle du Rosaire à Vence


'2024 2_13 国立新美術館 「マティス 自由なフォルム」 のプレス内覧会風景と、図録、「PRESS RELEASE」 などからの抜粋文章です。


・画像をクリックすると 「 Section Ⅱ | アトリエ | Les ateliers 」 がご覧いただけます。

Section Ⅰ | 色彩の道 | Chemins de la couleur

アンリ・マティス No.001《本のある静物》No.002《ダフィッツゾーン・デ・ヘームの「食卓」に基づく静物》

 フランス北部、ノール県に穀物商の息子として生まれたマチィスは当初法曹家となることを目指していた。 その後、マティスは法律を放棄し、美術を学ぼうとパリに出る。 1892 年にはギュスターヴ・モロー(1826-1898) の生徒として国立美術学校に非正規で入学。 数年間にわたりアカデミックな教育を受け、生身のモデルや古代彫刻の模刻をデッサンすることになる。 モローは教え子たちを街路で道行く人々をデッサンさせたり、ルーヴル美術館で巨匠たち、とくにティツィアーノ(1490頃-1576)、ルーベンス(1577-1640)、ドラクロワ(1798-1863) ら偉大な色彩画家たちの模写を行わせた。 かくしてマティスはルーヴルで何点も模写をする。 マティスの解釈はレンブラント(1606-1669) に想いを得て光を最重視し、フォルム(形態)どうしの均衡が画面を形づくるさまを大づかみに再現しようとしている。 マティスは早くも 1896 年には印象派主義を発見する。 1898 年には妻アメリーと数ヵ月にわたりコルシカ島に滞在し、新たな光や地中海の豊かに生い茂る緑に霊感を受け、初めて印象主義の手法で描く。 しばらくの間マティスは筆触分割に活路を求めたが決別し、別の色彩言語へと移行していった。 1905 年の秋,、南仏から持ち帰った強烈な色彩の絵画群は、新たな絵画傾向 「フォーヴィスム(野獣派)」 の名で知られることとなる。 この時期マティスは、応用芸術の領域でも色彩を開放する手立てを様々に模索する。

アンリ・マティスNo.010《マティス夫人の肖像》No.009《日傘を持つ婦人》

No.001 アンリ・マティス(1869-1954) 《本のある静物》 ポアン=アン=ヴェルマンドワ、1890 年 油彩/カンヴァス 21.5 x 27 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.002 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダフィッツゾーン・デ・ヘームの「食卓」に基づく静物》 1893 年 油彩/カンヴァス 72 x 100 cm テニース市マティス美術館蔵 / No.010 アンリ・マティス(1869-1954) 《マティス夫人の肖像》 1905 年 油彩/カンヴァス 46 x 38 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.009 アンリ・マティス(1869-1954) 《日傘を持つ婦人》 1905 年 油彩/カンヴァス 46 x 37.5 cm ニース市マティス美術館蔵

1890 年マティスは最初の油彩 左・No.001 《本のある静物》 を描きます。 いまだごく型どおりの静物画ですが、1892 年に国立美術学校の象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー(1826-1898)のアトリエで制作することが認められ、モローの助言に従い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写を始めたマティスは No.002 《ダフィッツゾーン・デ・ヘームの「食卓」に基づく静物》 を描きます。 17世紀オランダの画家ヤン・ダフィッツゾーン・デ・ヘーム(1606-1684) の油彩を模写した作例である。/ 1899 年に新印象主義の画家ポール・シニャック(1863-1933)に関心を寄せる。 1905 年、マティスは地中海に面する町コリウールで家族と過ごし、アンドレ・ドラン(1880-1954)とともに色彩を奔放に用いたフォーヴィスム(野獣派)を予期する油彩を描いた。 中・No.010 《マティス夫人の肖像》で は、緑系と赤系の補色関係による対比の効果が試されている。/ No.009 《日傘を持つ婦人》 では、新印象主義が提唱した筆触分割の技法が採用されている。



・画像をクリックすると 「 Section Ⅳ | 自由なフォルム | Formes libres」 がご覧いただけます。

Section Ⅲ | 舞台装置から大型装飾へ | Du décor à la grande décoration

アンリ・マティス No.76《ダンス―青色のハーモニー》/No.75《ダンス―灰色のハーモニー》

  バレエ・リュス(ロシア・バレエ団) を率いるセルゲイ・ディアギレフは、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーのオペラ 「夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)」 を振付家とともに翻訳した新作のバレエ 「ナイチンゲールの歌」 の舞台装置や衣装(No.070-073) 制作の注文をマティスが引き受けた時、バレエ・リュスはアンドレ・ドランが舞台装置をデザインした 「風変わりな店」 と、パブロ・ピカソ(1881-1973) が舞台装置をデザインした 「三角帽子」 をほぼ同時に上演していた。 後者は 1917 年にパリで、ついで 1919 年にロンドンで成功を収めた 「パラード」 に続くピカソとの協働である。 アンデルセンの物語に想いを得た同バレエは、ナイチンゲールの歌を聞いて中国皇帝の病が癒えるという筋書きである。 マティスはまず小型の模型を組み立て 「舞台を縮小した箱で、舞台装置や小道具、人物はすべて、様々な色で塗った小さな紙片で表してあり、それを箱の中であちこち動かしたのです」 また舞台幕は長さ 19 メートルに及び、そこに拡大転写するための下絵をマティスは自らの手で描いた。 マティスが有名なコレクターで実業家のバーンズから大壁面画の注文を受けたことでマチィスは、ダンスという主題を再び取り上げ、幅約 13 メートル、高さ約 3 メートルに別々のパネル 3 点の 「超人的大きさ」 の作品を描いていく。 1931 年 4 月マティスは縮小版の習作 3 点(No.074-076) をもとに、コンポジションをどのように色づけるかを構想し始める。

アンリ・マティスNo.71《「ナイチンゲールの歌」の機械仕掛けのナイチンゲールのための衣装》、No.73《「ナイチンゲールの歌」の日本の匠のための衣装》、No.70《「ナイチンゲールの歌」の皇帝のための衣装》、No.72《「ナイチンゲールの歌」の侍従のための衣装》

No.076 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―青色のハーモニー》 ニース、1931 年 油彩/カンヴァス 33 x 87.8 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.074 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―灰色のハーモニー》 ニース、1931 年 油彩/カンヴァス 33 x 87.8 cm ニース市マティス美術館蔵 / No.071 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の機械仕掛けのナイチンゲールのための衣装》 1999 年 着丈:155 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.073 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の日本の匠のための衣装》 1999 年 ドレスの着丈:145 cm マントの着丈:151 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.070 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の皇帝のための衣装》 1999 年 チュニックの着丈:147 cm ケープの着丈:311 cm モンテカルロ・バレエ団 / No.072 アンリ・マティス(モンテカルロ・バレエ団のアトリエによる制作) 《「ナイチンゲールの歌」の侍従のための衣装》 1999 年 チュニックの着丈:130 cm モンテカルロ・バレエ団

1930 年から 33 年にかけてマティスは、実業家でコレクターのアルバート・C・バーンズから注文された壁画 〈ダンス〉 の制作に没頭する。 1931 年 4 月頃からマティスは、色彩について考え始め No.75 《ダンス―黄土色のハーモニー》 と 左・No.076 アンリ・マティス(1869-1954) 《ダンス―青色のハーモニー》/ No.074 《ダンス―灰色のハーモニー》 の 3 点の油彩習作が残されている。 各々は基本となる色使いは異なるものの、ダンサーたちの姿勢は同じである。 マティスは最終的に No.074 《ダンス―灰色のハーモニー》 の案を採用し、カンバスの背景を青で塗り始めた。構図を調整するにあたってマティスは、カンヴァスが大きすぎたために色を塗った切り紙絵を用いている。/ 1919 年、マティスはロシアのセルゲイ・ディアギレフから 「ナイチンゲールの歌」 の衣装と舞台装置の制作を依頼された。 アンデルセンの物語をもとにしたこのバレエは、ロシアのダンサーで振付家のレオニード・マシーンによる振り付けで、 1920 年 2月 2日にパリのオペラ座で初めて上演された。 マティスは模型を用いてこの舞台装置のデザインを構想し、衣装のために何枚も習作を描いた。本展に出品されているのは、バレエ・リュスを起源に持つモンテカルロ・バレエ団がジャン=クリストフ・マイヨの指揮によって、1999 年 11 月にオランダのデン・ハーグで 「ナイチンゲールの歌」 を演じた際に再制作された、 No.071 《「ナイチンゲールの歌」の機械仕掛けのナイチンゲールのための衣装》/ No.070 《「ナイチンゲールの歌」の皇帝のための衣装》/ No.072 《「ナイチンゲールの歌」の侍従のための衣装》そして No.073 《「ナイチンゲールの歌」の日本の匠のための衣装》 の衣裳である。



・画像をクリックすると  「 Section Ⅴ | ヴァンスのロザリオ礼拝堂 | La Chapelle du Rosaire à Vence 」
& 「切り絵の技法」 & 「ニース市マティス美術館」 がご覧いただけます。

アンリ・マティス

《ダンス》 の習作を制作中のアンリ・マティス はアルバート・C・バーンズから注文された壁画 《ダンス》 の制作のために 1931年、ニースにアトリエとして大きなガレージを借り、《ダンス》 の構図を模索します。 最初マティスは小さな習作で構想を練り、次いで構図を拡大し、大きなガレージで長い竹竿を用いてカンヴァスに粗描しました。

アンリ・マティス (1869-1954)

マティスがその 60 年以上におよぶ創造の歩みにおいて、熟慮と思考を重ねた末に到達したのは、助手に色を塗ってもらった紙をハサミで切り抜き、それらを組み合わせて活き活きとした構図に仕立てあげる 「切り紙絵」 でした。
色紙をハサミで切り取ることで色彩表現とデッサンを同時に行なうことができたのです。 筆とカンヴァスの代わりにこの “ハサミでデッサンする” 手法で、自由自在に色とかたちを生み出し、そのキャリアの絶頂期を迎えたのです。

アンリ・マティス | 年 譜 (『マティス 自由なフォルム』 図録よりの抜粋文)

・1869 年 0 歳 12 月 31 日、アンリ=エミール=ブノワ・マティスは、父エミール=イポリット=アンリ・マティスと母アンナ・エロイーズ=ジェラールの長男として北フランスに生まれる。 幼年期を近郊のボアン=アン=ヴェルマンドワで過ごす。
・1882-87 年 13-18 歳  サン・カタンの中学・高校に通学する。
・1889-92 年 20-23 歳  サン・カタンの法律事務所で働く、虫垂炎で 1 年近く療養し、母から与えられた絵具で絵を描き始める。 無料デッサン学校の早朝クラスに通う。 1890 年 6 月に初の油彩画 《本のある静物》 [cat.001] を制作する。 1891 年、法律の道を放棄し、パリで画家になることを志す。 1892 年、象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの教室に非正規で出入りし、指導を受ける。
・1898-1905 年 29-36 歳  1898 年 1 月、アメリー・パレールと結婚。 1899 年 1 月、長男ジャン=ジェラールが誕生する。 新印象主義の点描の影響を受けた作品を制作する。 セザンヌの 《3人の浴女》、オーギュスト・ロダンの石膏胸像を手に入れる。 過度な作品購入や自身の作品の売れ行き不振のため経済的に困窮する。 妻アメリ―が夫人帽子店を開き、家計を支える。 1900 年 象徴主義の画家オディロン・ルドンのパステル画を 2 点、ポール・ゴーギャンの作品を購入する。 6 月、次男ピエールが誕生する。 1905 年 10-11 月、ドランやヴラマンクらとともにサロン・ドートンに出品する。 その激しい色彩とタッチによる作品群が並ぶ展示室を見て、批評家ルイ・ヴォークセルから 「野獣(フォーヴ)の檻」 と呼ばれる。
・1908-09 年 39-40 歳  1908 年 1 月、マティスが自ら教鞭をとるアカデミー・マティスを開設する。 春、シチューキンがロシア人コレクターのイヴァン・モロゾフをマティスに紹介し、その後、モロゾフがマティス作品の収集を始める。 1909 年、シチューキンより自邸の階段のための装飾画を依頼され、「ダンス」、「音楽」、「休息」の主題を構想する。 9 月、パリ郊外のイシー=ムリノーへ転居する。 新印象主義を擁護した批評家で、この頃に画商となっていたフェリックス・フェネオンを介してベルネーム=ジュヌ画廊と 3 年更新の契約を結ぶ。 《蛇女》 [cat.043] を制作する。
・1914-19 年 45-50 歳  1914 年 7 月、第一次世界大戦が勃発する。 7 月、ベルリンで個展が開催される。 兵役を志願するも召集されず。 コリウールに滞在する。 1918 年 1-2 月、パリのポール・ギョーム画廊にてマティスとピカソの二人展が開催される。 1 年多くをニースで過ごす、ルノワールにしばしば会い、作品を見せる。 11 月、第一次世界大戦が終結する。 ロシア革命後にソヴィエト政府がシチューキンとモロゾフのマティス・コレクションを接収し、国有化する。 1919年 9 月、バレ・リュス創設者のセルゲイ・ディアギレフから 「ナイチンゲールの歌」 の為の衣装[cat.070-073] と舞台装置を依頼される。 1-12 月、大戦のため中断されていたサロン・ドートンヌが再開し、7 点を出品する。 ニューヨークのマリウス・デ・ザヤス画廊での展覧会に 6 点を出品する。 ロンドンのレスター画廊にてマティスとマイヨールの二人展が開催され、51 点を出品する。
・1923-24 年 54-55 歳  1923 年 8 月、ベルネーム=ジュヌ画廊と 3 年間契約を更新し、これが最後の契約更新となる。 国家収監となっていたシチューキンとモロゾフのマティス・コレクションが、第一国立西洋美術館ほかの所蔵となる (現在ではモスクワのプーシキン美術館とサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に収蔵)。 12 月、長女マルグリットがビザンチン美術研究者であるジョルジュ・デュテュイと結婚する。 1924 年 9-11 月、コペンハーゲンにて大規模な回顧展が開催され、87 点を出品する。
・1927-30 年 58-61 歳  1927 年 1 月、次男ピエールの企画による回顧展が、ニューヨークのヴァレンタイン・デュデンシング画廊で開催される。 ピッツバーグのカーネギー国際美術展でグランプリンを受賞する。 1930 年 9 月、カーネギー国際美術展に審査員として招聘されアメリカを訪問する。 ピカソがグランプリを受賞する。
・1938-44 年 69-75 歳  1938 年 1-2 月、オスロにて 「マティス、ピカソ、ブラック、ローランス」 展が開催される。 1940 年 6 月、パリがドイツ軍に占領される。 1944 年、春、妻アメリ―と長女マグリットが、対独レジスタント活動の容疑でゲシュタボに逮捕される。 9 月、詩人シャルル・ボードレール 『悪の華』 のためにリトグラフによる 23 点の頭部像の挿絵を制作し、1947 年に刊行される。
・1951-54 年 82-84 歳  1951 年 3-5 月、東京国立博物館で日本初のマティス展が開催される。 その後、 6 月まで大阪、岡山に巡回する。 6 月、ヴァンス礼拝堂が完成する。 1952 年、《花と果実》 [cat.097] など、壁面を覆う巨大な切紙絵の連作を制作する。 10 月、から翌年 1 月、ニューヨーク近代美術館で「フォーヴ」展が開催され、31 点を出品する。 ミネアポリス、サンフランシスコ、トロントに巡回する。 4 月、切紙絵による 《ブルー・ヌード》 [cat.092] の連作を制作する。 11 月、ル・カトー=カンブレジにマティス美術館が開館する。 開会式に出席する。 1954 年 11 月 3 日、ニースにて死亡。 シミエに埋葬される。 享年 84。

1951 年、マティスが生前、日本で最後の個展 「アンリ・マティス 礼拝堂・油絵・素描・挿絵本」 展を現代の東京国立博物館で国立博物館と読売新聞社の主催によって、開催された。 この展覧会はその後、大阪市立美術館と、岡山県倉敷市の大原美術館へ巡回している。 この時マティスは 81 歳であり、フランスはヴァンスのロザリオ礼拝堂に関連する作品が多数出品されており、礼拝堂の模型、ステンドグラス 《生命の木》 の下絵となる切り紙絵、陶板壁画 《聖ドミニクス》 や 《十字架の道行》 の習作となるデッサンなどが含まれていた。 当時の新聞はこの展覧会が日本で熱狂的に迎え入れられたことを伝えている。 展覧会には昭和天皇と香淳皇后や、吉田茂首相などの要人も訪れており、どれほど注目を集めていたのかがうかがえ知れる。



お問合せ:050-5541-8600 (ハローダイヤル)
展覧会サイト:https://matisse2024.jp
国立新美術館サイト:https://www.nact.jp
主催:国立新美術館、ニース市マティス美術館、読売新聞社、日本テレビ放送網

   特別協賛:キヤノン  協賛:DNP大日本印刷
協力:日本航空、日本貨物航空、ヤマト運輸
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ、J-WAVE


参考資料:「マティス 自由なフォルム」図録、PRESS RELEASE & 報道資料 、他。
※画像の無断転載禁止


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